タイトルの通りに検索してHitした方には落胆させるかもしれませんが、個人的にも明確に「以下の理由でどんどん導入した方が良い!」といった答えには辿り着いておりません。

9月28日、親子でコラージュアートが開催されました。
自分と、親と、そして他人と、先ずは、線を重ねてコラージュするための素材作りをしました。伸びやかな線や、戸惑いを感じさせる線などその描写は様々。出来上がった作品はこれだけでも十分美しいのですが、ここからハサミや手を使ってピースを作ります。好きな色の台紙を選んでコラージュ作品を完成させるのですが、作品は子ども達が好きな所へ掲示します。「空の高い所へ飾りたい、高い所が良い。」子ども達の様子にも気付きながらワークは進行されました。

幸せな生き方

2018年09月24日

と話された方がいらっしゃいました。その方は、近代は個人主義、自己責任の顕著な時代であり、更にそれが続く可能性があることを危惧されておりました。
完全にそれらが悪で、逆行すれば善と言うこともありませんが、一番危険なのは疑問を抱かずに生きていくことではないでしょうか。

誰かが絵を描いた時、「これは何を描いたの?」「〇〇に見える。」など具体的なモノを求める傾向があると感じます。それに付随して評価も下されることがありますが、そもそも表現活動というものは、何を描く、何を表したかということはあまり重要ではないように思えます。しかし、作品を通して何を見たか、どう感じたかを話すことは重要なことだと思います。それは何故か。一緒に解き明かしていこうと言う内容も含まれております。

夏中はckc(ちがさきこども映画祭)においてストーリーの構成を考えたり、撮影をしたりの映画三昧でした。子ども達に考えてもらう前に見守る大人が創作活動に関して無知であっては意味が無いので、「良い作品とは何だ?」と考えることが多かったです。何をもって「良い」とするかは人によります。同時に子どもの創造性も想像力も引き出し、問題解決に取り組み、地域と交じわり、時間と戦い・・
完成形が誰に認められて、どんな評価が下されるかは我々、見守り隊にはあまり意味がありません。子ども達の表現活動と、コミュニティーとの交わりの足跡が「作品」なった、というだけです。子ども達から見れば、自分の分身が表出される恥ずかしさがあるようです。そこへ「評価」がなされるわけですから、少なくともソワソワしていることでしょう。
...