保育や子育てにおける手法の中で言われる「自由」とは?

2018年12月11日

お仕事上、多くの保育者や子育て中の方々とお会いいたします。

保育者に関しては、教育手法としてのモンテッソーリをご存知の方が多い、或いはレッジョアプローチは聞いたことが有るけどモンテッソーリと何が違うの?という疑問が多いです。子育て中の保護者に関しては「モンテッソーリが良いらしいので、家では(又は園は)モンテッソーリです。」と仰る方が多いです。

教具のみ置いていると言うものも含め、モンテッソーリメソッドを取り入れている園は多いと思いますが、子育て中の保護者が「家庭でモンテッソーリメソッドを取り入れている」ということは大変な大仕事であろうと思います。勿論、出来なくはないですが。

昨日は「やってごらん。」「いいよ」だったのが今日には、「時間ないから今日はダメよ」では子どもは混乱しますし、今日できない言い回しも新たに覚えていかなくてはいけません。専門的な、発達の傾向や心の発達も一緒に見守る必要性があり、またその都度お家に揃えるべき教具が出てくるわけです。しかも子ども達のお仕事の様子を保護者が見守ることも大事です。園で「一部」モンテッソーリメソッド導入、と自ら仰るところも考えてるべき点は同じです。

子どもを見る目がじゅうぶんにあるか。

文化とともにメソッドが発展しているか。

子どもの発達段階を見極めているか。

子どもに対する言葉がその哲学に合っているか。

などです。

挙げられている物は一部ですが、こんなに考えるべき項目が多いのに、各種のメソッドやアプローチは本当に自由なのでしょうか。

モンテッソーリは自由だ。

モンテッソーリは主体的だ。

レッジョアプローチは自由だから、荒れそう。などと言う言葉にも出会います。

「自由」とは何でしょうか。「主体的」とはどういうことでしょうか。

例えば、モンテッソーリにおける自由は「この範囲でお仕事をして良いですよ、の権利により保障された教具を、誰にも邪魔されることなくお仕事ができる」ことに当たるらしいのです。自由は権利であるということですが、その考え方は言葉は違えどレッジョエミリア・アプローチでも同じだと思います。「この範囲内での対話や観察を含める探求活動は与えられた権利である。子どもであっても市民の一員として地域に参画出来る権利」であるわけです。

言葉の意味1つ1つを捉えながら物を考えると、理解が深くなります。

また、保護者が子どものことをおもい、育児書など読まれることもあると思いますが、疑問に感じたことや言葉の意味について、なんとなく理解に難しい場合は園の保育者や周囲にいる教育者に質問をすると良いでしょう。

保護者が多忙な中、きっちりと教育方針を徹底されることは尊敬に値しますが、色々な育児書を読まれることもお勧めします。

日本の倉橋惣三さんなどはお勧めです。

日本にも良い幼児教育の先駆者があり、またその本質は今日まで残る教育方針だったり手法と通ずるところがありますよ。