本物のセンスオブワンダー

2018年06月04日

道端に咲いている草花。

空き地や雑木林の中の虫追い。

自生している果実。

私は幼いころ、田舎に住んでいたので自生している枇杷や柿を鳥と共有しながら食べていました。もぎたての果物は、どんなに高価であっても、デパートで売っている果物とは比較できないほど美味しい!

草花も様々な種類があり、緑の濃淡に驚き、綺麗な花にある棘にショックを受けました。

小さな花を追っている内に大きな虫に出くわし、虫が共食いしている所を目の当たりにする。

自分の中で沸き立つ感情が一体なんなのか、わからないまま帰路についたこともあります。

田んぼの時期になると別の虫やカエルが出て来て、本物のカエルの合唱を散々聞きました。

その時にじっと耳を傾けて、これはなんだ?一体何匹、輪唱しているのだろうか?

と散々、何もない空き地、田んぼのあぜ道、誰もいない木の下で時間を過ごしました。

その時に図鑑が手にあったか。誰かが答えを教えてくれたか。と言うとそれは無いし、家へ帰ってから急いで図鑑を広げたこともない。しかし、この経験はしっかりと私の中に根付き、学校である程度の学年になってから虫の共食いに関して学び、花の構造について学び、カエルに種類が多くあり、何故この地域にはアマガエルが多いのか学び、あっという間にその基礎知識を習得。更にはそれらの勉強は全く苦にならなかったのです。

食の感覚はいまだに舌に残っています。

あれほど美味しい果物を鱈腹食べた。

有名な漁港が近かったけど、鮮魚よりも旨い。誰も文句を言わずに木登りを見ていてくれた。時々お婆ちゃんが「私の分ももいで」と言って手伝うととても嬉しそうだった。良い記憶しかない。

ずいぶん成長して、私が成長した土地も、引っ越した先も、幼少に過ごしたような余裕のある土地はずいぶん少なくなったし、余裕がある大人も少なくなった。

子どもが木に登れば「危ない」「看板をつけてやって」。

道端には何がおちているかわからないから迂闊に触れることができない。

畑や田んぼの脇でじっと座っていると子どもなんて見掛けない。

しかし幼少期こそ、いろんな環境の中にそっと身を置いて1つの事に集中して没入する時間が必要だと思う。

大人になってその感覚は必ず役に立つし、疲れたなと感じても自分を救う道を自力で探すことができる。

何故だ?と感じることには自ら学べば、時々1つ以上の答えがあることも知っているし、それを知ることが好きになる。

たまに答えがない問いがあって、世の中にはそんな問題がたくさんあることにも気づく。

「非認知能力」とタイトルに入れるといきなりブログのアクセスが伸びる。

これは皆が気になるワードだからでしょう。

しかしながら何が1番大切なのか、

何処に時間とお金をかけるべきなのか。

これはいまだに周知されず、なるべく手っ取り早く、

なるべく大人が満足する方法で会得されるように社会は動いている様に見える。